I have something to say
わたしが近ごろかんがえていることを徒然なるままに...
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
attention:芥川賞受賞作「沖で待つ」の選評は先に読んではダメ
現在発売中の文芸春秋3月号に掲載の第134回芥川賞受賞作、絲山秋子著「沖で待つ」を読みました。読後感をひと言でいえば、恋愛やサブカルチャーではなく一風変わったものを題材にしながらも、清々しさ、爽やかさが残ったということです。一種の友情譚に近いかもしれません。

ただ、この作品を味わう上である決定的な間違いを犯してしまいました。それは、本編の手前の頁におかれた選評を先に読んだことで、作品の重要な鍵となるタネを事前に知ってしまったことです。これを知らずに読めばその"仕掛け"の妙をもっと堪能できたととても悔やんでいます。

それはさておき、この作品で描かれていた、社会人になったときの同期というのは特別なものだったことを思い起こしました。会社という"ムラ"のなかでさらに区別される独特の存在でした。

おなじ同期とはいっても学業や部活動、遊びが中心の学生時代と、仕事すなわち飯の糧がベースにあり、そこへ幅広い年代との接触や酒という小道具が加わる社会人とでは一線を画しておおきな違いがあります。
その同期のメンバーも、男女、ときには高卒・専門学校卒・大卒が入り乱れ(大卒はなどはさらに年齢のばらつきがあったりする)ながらも不思議な連帯感があったことを思いだします。

そこから転勤・結婚・転職などで別れを余儀なくされるわけですが、この「同期の一体感」は個人的にはそのひとにとっての"最初の"入社――それもやはり春の入社がふさわしい――で「同期」になった仲間内でしか味わえないように思えます。
転職によって中途入社したとき同日に入社したひとがいて、その後協力しながら仕事をしたとしても、そのひとを「同期」と呼べる感覚はほとんど持てないでしょう。

作品のなかの職種は違いますが、仕事の失敗の慰め合いやくだらないギャグのやり取りなど、ずっとながいあいだ意識から消えていた同期の連中との思い出が蘇ってきました。小品ながらも久しぶりに佳作に出会えたひとときでした。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。